こんにちは! 自然観光が趣味の福岡市民、「しぜんfan」のPollyです。
みなさんは、映画『記憶の森』を最近ご覧になったのでしょうか?
私は4ヶ月ほど前にAmazonプライムビデオで一度流し観して、昨日(2019年12月某日)再度しっかり観てみたところです。
初見では流し見だったこともあり、けっこう感動したのですが、あらためて見ると突っ込みどころも満載…。
それでも、話の軸や世界観としては、私はいい映画だと思いました。「ツッコミどころは多けれど、エッセンスを汲み取れば、感動的な魂の浄化映画」という感じ。
そしてこの“魂の浄化”は、死んだ人の魂というよりも、生きている人の魂の浄化であるように感じました。
大切な人の死や、二度と癒されることのない後悔を乗り越えなければならない、生き残った側のためのメッセージ。
亡くした人とは二度と会話することも、和解することもできませんが、「あなたがその人を愛していたのなら、その人もそれは分かってくれているよ」と第三者に言ってもらうとこで、救われることもあると思いますから。
特に、大切な人を亡くした経験のある方にとっては、少なからず心に響くものがある映画なのではないでしょうか。
視聴後には、なんか青木ヶ原に行ってみたい気分になった方もいるかもしれません。
私もそうで、この映画に触発されて、過去に樹海を訪れた際に撮りっぱなしになっていた写真を整理してみようと思い立ちました。
そこで今回は、
- 映画『追憶の森』のあらすじと感想
- 青木ヶ原樹海ミニハイキングの風景紹介
という二本立て構成で記事を作ってみたいと思います。
映画の余韻に浸りつつ、他の人の感想や樹海の様子を見てみたいという方、よろしければぜひお付き合いくださいませ。
※既に映画を観た方、ネタバレOKの方向けです。ハイキングに飛びたい方は、目次をご活用ください。
目次
映画『追憶の森』のあらすじ
『追憶の森』(原題:The Sea of Trees)は、2015年のアメリカ映画です。監督は、『グッド・ウィル・ハンティング』のガス・ヴァン・サント。
出演はマシュー・マコノヒーと渡辺謙の二人で、この二人が森の中を彷徨うシーンが映画の半分を占めています。
次いで重要な役割を演じるナオミ・ワッツ(『ザ・リング』『21グラム』)は、森のシーンと交互に挟まってくる回想シーンに登場しますね。
あらすじを振り返ってみましょう。
物語は、主人公のアメリカ人男性アーサー(マシュー・マコノヒー)が、何やら上の空で車を運転しているところから始まります。
彼が車を停めたのは、アメリカ国内のとある空港の駐車場。車を降りるとすぐにチェックインカウンターへ向かい、東京行きの便への搭乗手続きを行います。彼が車に鍵を差したままであること、帰りの航空券を必要としていないこと、手荷物は一切ないことなどからも、“先” を見ていない人物なんだろうな、と想像することができます。
機内でも飲まず食わずで生気のないアーサー。東京に着くと、そのまま一人でどこか目的地へと移動します。
(ここまでで日本人視聴者の頭の中には当然、「青木ヶ原樹海」「自殺」というキーワードが浮かんでいることと思われますが、日本に馴染みのない人にはどうなんでしょう?)
アーサーの薬指には結婚指輪があり、道中の電車内での様子から、どうやら彼の結婚生活に関する何かがこの樹海行きに深く関係している予感。
タクシーで森の入り口に乗り付け、そのまま森の奥深くへ入っていくアーサー。その歩みの道中では、「そう簡単に死体が転がってるかよ!」と突っ込みたくなるような塩梅で、ミイラ化した死体、腐敗したような死体が転がっています。
(個人的には、この「森の奥深くに入って行く」部分がうまく描ききれていなかったのは残念。森に分け入るアーサーを俯瞰で映し出すシーンが欲しかったです。)
森の中でアーサーは、ジャケットの内ポケットから取り出した怪しげな薬を飲み、観客は「服毒自殺か?」と思うのですが、その後も彼の様子に変わりはなく、途中で一度めまいがする程度。
(のちにこの薬は亡くなった妻の治療薬だったことが判明し、彼女を感じる・リンクするための行為だったのではないかと私は思いました。)
さあ、ここで渡辺謙の登場です。アーサーは、森の中を彷徨い歩く一人のサラリーマン・タクミを遠目から発見。彼はあちこち怪我をしており、フラフラです。「森から出たいのに出口が見つからない…」と言う彼に、アーサーは出口へ繋がる小道を教えてあげます。
(ここで、「いきなり日本のサラリーマンが普通に英語で話すかよ」と再びツッコミ。)
しかし、気付けばまた彷徨っているタクミ。このあたりから「一度入れば出られない」「ここでは携帯電話は通じない」「方位磁石の針が乱れる」など、森の “霊的要素” がどんどん表に出始めるのですが、この段階で注目しておきたいのは、アーサーは科学者であるということ。
タクミが「この森には魂が漂っている。君たちの宗教でいうところの煉獄(この世とあの世の間)なんだよ」と言ったとき、アーサーはそれを信じませんでした。「科学で解明できないことはない」と言い切っており、逆に科学的に証明できないことは信じない、というスタンスです。
(その割に神の存在は無条件に信じているところは、西洋文化らしいところ。)
この、霊的なことを信じないアーサーのキャラクターは、ストーリー展開をいきなり “ザ・スピリチュアル” に寄せ過ぎないポイントとなっています。最後には、彼はこの森が本当に煉獄だったこと、自分がここに来たのは森に呼ばれたからだったということを肌で感じるわけですが、いきなりそんなこと、普通は信じられませんからね。
映画のハイライトシーンともなる焚火のシーンまでは、お互いに交流を深めていくアーサーとタクミの “森パート” と、妻ジョーン(ナオミ・ワッツ)との軋轢から彼女の病気発覚までの “回想パート” とが交互に進行し、アーサーがなぜ樹海にやって来たのかを解き明かしていきます。
このあたりでは、以下のような、後に響いてくる重要なエピソードも登場。
- タクミの妻の名前は「キイロ」、娘の名前は「フユ」である
- 魂があの世に行ったとき、土のない樹海の岩場にはランのような花が咲く
- タクミが「水辺にいると幸せだ、俺にとっては楽園だよ。そこでのいい思い出が蘇るんだ。」と語る
そして、焚火シーン以降は怒濤のような伏線回収が始まります。
アーサーがはるばる日本の「青木ヶ原樹海」に来た理由は、「あなたは病院では死なないで。理想の場所で死ぬと約束して。」というジョーンとの会話を受けてのことだったのですが、この “理想の死に場所” と樹海を結びつけたのが「Google検索」だったことも判明。
(私はここに「そんなに簡単に決めるの?」と思ってしまいましたが、「森がアーサーを呼んでいた」と考えると納得できなくもない。)
ジョーンの死因が病死ではなくまさかの事故死だったことも、私は「そのサプライズ、要る?」と思ってしまいました。タクミの「ハンサムとグレーテル」のくだりも全然要らないと思いましたし…。
思いがけないハプニング、劇的ピンチ、分かりやすい笑いポイントが入るのはアメリカ映画のお約束ですので、そこは淡々と受け入れるしかありません(笑)
何はともあれ、タクミとの交流、亡き妻ジョーンとの間接的な会話を通して霊の存在を信じるに至り、アーサーが生きる力を取り戻すまでを描く、というのがこの映画の本筋となっています。
最後にはアメリカに帰り、妻との思い出を胸に前向きに生き始める彼。タクミも無事成仏し、“収まるところに収まる” 結末です。
感想
この映画の大まかな感想としてまず思ったのは、アーサーとジョーンとの間に何があったのかを追う回想シーンはしっかり描かれていたのに、森をとりまく部分の掘り下げ・作り込みが浅かったのでは、ということです。
「青木ヶ原樹海」をテーマに映画を作りたかったはいいが、設定がうまくリンクせずに空回りしてしまった、という感じでしょうか。監督もこの世界観に対して手探りな部分があったのかもしれませんね。
とはいえ、結果的には少々ファンタジックな匂いがしていたとしても、不自然さ・大げささは感じませんでした。これはもちろん、私が日本人だからでしょう。富士山が霊場でもあること、目に見えないものに宿る力、魂の存在、なんてのは神道・仏教ではよくある考え方ですもんね。
日本で生まれ育った人にとっては、しっかり観ていくほどに最後にじんわりと落ち着く、芯のある映画なのではないかと思います。
ただし、「細かいことを考えてはダメ。エッセンスだけを汲み取るべし」という条件付きですけど…。
次に挙げたいのは、マシューの演技の素晴らしさです。特に印象に残るのはやはり焚火シーン。真夜中に小さな焚火を囲んでおじさん二人が語り合う、という地味な画が続くシーンですが、これまで抑えていた内なる感情をマシューが徐々に開放させる重要シーンでもあるんですよね。
顔のアップと独白だけで観客に十二分に感情移入をさせてしまう、この映画で一番の見どころなのではないでしょうか。
(焚火で本心を語る、というのはいかにもアメリカンではありますが。)
焚火シーンだけでなく全体を通しても、制作陣が「青木ヶ原樹海を題材に映画を作りたい」と感じた理由が、マシューの演技によってちゃんと表現されていたような気がします。文化も宗教も超えたものであると私は思いたいのですが、海外での低評価から見るに、残念ながらそこには “越えられない壁” があったということかもしれません。
「Yahoo! 映画」や「映画.com」「Movie Walker」など日本の映画レビューサイトでは概ね星3.5レベルをマークしているのに、海外のレビューサイトでは「1」もザラですからね…。
参考までに、「Rotten Tomatoes」という英語のレビューサイトには、以下のような感想が載っていました。
- 「ヴァン・サントは、自分がどんな映画を作っていて、どんなことを言いたいのか、自分でもよく分かっていなかったようだ。割り切って、景色を楽しんだ方がいい。」
- 「この映画は、人物そのものではなく、抑うつや癌、自殺を心を動かす材料にしている。」
- 「思うよりいい映画だ。マシュー・マコノヒーの素晴らしい演技もあり、ときにメロドラマ風ではあるが、不思議と心に響く。」
全員が全員、ネガティブな意見を持ったわけではないようです。
考察:あの花はタクミの魂なのか、ジョーンの魂なのか
最後によく分からなかった点があります。それは、タクミの霊とジョーンの霊の不可思議な融合性です。
先にも話に出ましたが、タクミは森の中で「水辺にいると幸せだ、俺にとっては楽園だよ。そこでのいい思い出が蘇るんだ。」と言ってるんですよね。そして、ジョーンも生前に病室で「水辺にいると幸せ。私にとっては楽園よ」と同じことを言っています。
タクミがそのセリフを口にしたとき、アーサーは「それ、ジョーンも言ってた!」とはならず、「森を出られたら、絶対にそこに行くべきだよ!」という反応をするのですが、霊であるタクミがジョーンのセリフを言うことには、何かしらの関連性があるはずで。
また、アーサーの心に刺さって抜けなかった罪悪感の一つでもあった、ジョーンの好きな色と季節について、その答えがタクミによってもたらされることも不思議といえば不思議。
焚火シーンでもタクミは、アーサーの独白を、まるでジョーンの代わりに引き出しているかのような誘導役をしており、しまいにはジョーンの魂そのものがタクミだったのではないかと思ってしまうほどです。
というようなことを総合して考えると、タクミ=ジョーンではないのか? という疑問が出てきました。
最後に咲いたランの花も一株でしたし。
これについてよく考えた結果、私は以下の2点に落ち着きました。
- 森のちからで、霊同士も “個は全、全は個” みたいな状態になって、無意識に交信し合っている
- 花が咲くのは、直接あの森で死んで成仏した人だけ
霊同士はお互いの存在を感じ合うことができ、タクミはあの森で、無意識にジョーンの霊と対話していたのかもしれません。しかし、最後に咲く花は2輪ではなかったことから、「花になるのは樹海で死んだ人の魂だけで、あの花はタクミの花である」と考えたほうが自然かな、と思い至りました。
「あの花は森と霊の存在の象徴であって、タクミでもジョーンでもある」と考えてみても素敵ですけどね。
また、私が次に引っかかったのは、アーサーが森に再び戻ってきたときに出てくる「ありがとう、世話になった。(Thank you for taking care of me.)」という言葉です。
これは、もとは力尽きたタクミがアーサーに別れを告げるときに口にしたフレーズでしたが、映画の最後、アーサーが絵本を取り出した後にもリフレインされます。
ここで浮かんだ、あれは結局、誰から誰への言葉なのか? という疑問。
ヘンゼルとグレーテルの絵本を見た直後というタイミングにリフレインされるため、単にアーサーが成仏していくタクミのことを思い出しているだけとは考え難い。ジョーンからアーサーへの言葉、もしくはその逆で、アーサーがジョーンに呟いた言葉のようにも引用されている。
よって、「死にゆく者」と「残された者」の間で贈り贈られる言葉、なのではないかというところに落ち着きました。「誰から誰」とは特定せず。
特にあの夫婦は、お互いが生きているうちにそれを伝え合うことができませんでしたので…。
以上が、視聴後に浮かんだ疑問への、一応の私の考察でした。
“ヘンゼルとグレーテル” と ”天国への階段” の使われ方についてはいまいち腑に落ちないのですが、とにかく、ランの花が検閲に引っかからず、アーサーも帰りの飛行機ではモリモリご飯食べれて、その辺はハッピーエンドですね!
さて、映画の感想まで終わったところで、ここからは私が数年前に行ってきた「青木ヶ原樹海ミニハイキング」の体験レポートをお送りしたいと思います。