はじめまして。自然観光ファンの福岡市民、「しぜんfan」のPollyです。
当記事では、先日久しぶりに視聴した映画『悪人』(2010)の感想、そしてその後に小説『悪人』を読んでみて新たに感じたことなどを書き綴ってみたいと思います!
この映画、主演の妻夫木聡さんが今までのイメージと全く異なる役柄を演じたこと、同じく主演の深津絵里さんがモントリオール世界映画祭で最優秀女優賞を受賞したことなどで、当時は大変話題になりましたよね。
記憶をたどれば「あー、そうだったねー!」とも言えるのですが、私はつい最近まで、この映画の存在自体をすっかり忘れておりました。思い出すきっかけとなったのは、先日(2019年10月末)訪れた佐賀駅南口のロケ地です。
この映画の舞台は長崎、佐賀、そして福岡の九州北部3県。
撮影も多くがこの3県内で行われており、当時はロケ地を巡る観光プロモーションやパネル展、個人の“行って来ました”報告などでひとしきり盛り上がったようです。(私はあまり気に留めていませんでしたけど。)
それから約10年が経とうとする今、その数々のロケ地の一つであったらしい佐賀駅南口を全く別の目的で訪れたことをきっかけに、またこの映画を観てみようという気になったのでした。
今このページをお読みいただいている方も、つい最近ご覧になったのでしょうか。
初めてか何度目か、それはもちろん人それぞれだと思いますが、視聴後・読了後にいろいろ思うところがあって、他の人々はどう感じたのか気になっているところなのかもしれません。
私も、歳も取ったせいか、今回の視聴では前回よりも格段に多く感じることがあり、小説を読んでみるまでにしっかりと作品と向き合ってみました。
そして、何とかそれを文章にまとめてみたいと筆を執った次第です。
映画や文学に特別精通しているわけでもないただの一般人のレビュー記事ですが、よろしければぜひお付き合いくださいませ。
目次
映画『悪人』の基本情報
まずは、映画の基本情報をさらりとまとめてみたいと思います。
- 日本での公開日:2010年9月11日
- 監督:李 相日(り そうじつ/イ・サンイル 又は リ・サンイル)
- 原作者:吉田修一
- 脚本:吉田修一、李 相日
- 音楽:久石譲
- 出演者:妻夫木聡(清水祐一)、深津絵里(馬込光代)、岡田将生(増尾圭吾)、満島ひかり(石橋佳乃)、柄本明(石橋佳男)、樹木希林(清水房枝)、宮崎美子(石橋里子)他
- 受賞歴:第34回モントリオール世界映画祭(最優秀女優賞:深津絵里)、第53回ブルーリボン賞(主演男優賞)、第34回日本アカデミー賞(最優秀主演男優賞、最優秀主演女優賞、最優秀助演男優賞:柄本明、最優秀助演女優賞:樹木希林、最優秀音楽賞:久石譲)、第65回毎日映画コンクール(日本映画大賞)、第84回キネマ旬報ベスト・テン(日本映画ベスト・ワン、日本映画監督賞、日本映画脚本賞、助演男優賞:柄本明)他
- 上映時間:139分
- 配給:東宝
※参考:Wikipedia「悪人(小説)」
原作は小説なのですが、その著者自身と監督とが二人三脚で脚本を作り上げているんですね。
音楽は、久石譲さんです。
数々の賞を受賞しているようですが、素人の私にはこれがどれだけすごいことなのかいまいちピンと来ません…。
そこで、もうすこし詳しく調べてみると、例えば「日本アカデミー賞」では『悪人』は5部門で最優秀賞を受賞しており(※これを「5冠」と言うようです)、
トータルでも13部門で15賞を受賞。これは、この年(第34回)の最多受賞数だったようです。
比較対象として、近年大ヒットした映画の数々の受賞歴をみてみると、
- 『万引き家族』(2018):8冠・11部門12賞
- 『シン・ゴジラ』(2016):7冠・10部門11賞
- 『船を編む』(2013):6冠・13部門13賞
- 『八日目の蝉』(2011):10冠・12部門13賞
- 『おくりびと』(2008):10冠・13部門13賞
となっていました(参考:日本アカデミー賞公式サイト)。
米アカデミー賞の外国語映画賞も受賞した『おくりびと』にはさすがに敵いませんが、それでも『悪人』も、これらに引けを取らないくらいの高評価を受けた映画であることが分かります。
なんといっても、深津絵里さんが「モントリオール世界映画祭」で最優秀女優賞を取ったことも大きかったですよね。って、この映画祭のこともよく知りませんが、国際舞台で評価されるというのはすごいことのはず。
でも、個人的には妻夫木聡さんの演技のほうが印象に残った気がします。
ちなみに、『悪人』が公開された2010年の映画には、邦画では『告白』『借りぐらしのアリエッティ』『踊る大捜査線 THE MOVIE 3』『十三人の刺客』『おとうと』 『ゴールデンスランバー』などが、洋画には『インセプション』『シャッターアイランド』『アリス・イン・ワンダーランド』『キック・アス』『ナイト&デイ』『アイアンマン2』などがあります。
私は現在アラフォーなのですが、こうしてタイトルを並べてみると、どれもつい最近のことのようにも感じるんですよね。
そうですか、もう10年近くも前ですか・・・
今回ずいぶん久しぶりに『悪人』を観てみると、満島ひかり演じる佳乃の服装だったり、「出会い系」という言葉、ガラケー、ユニバーサル・スタジオなど、確かに時代を感じる要素は満載でしたよね。故・樹木希林さんもお若いし。
でも、他出演陣の、特に深津絵里さんのここ20年くらいの変わらなさには驚きです。
映画のあらすじ
肝心の映画のあらすじはというと…
ある朝、若い女性の絞殺死体が山の中で発見された。彼女は、久留米出身の保険外交員・石橋佳乃。そして、彼女が死んだ夜に会っていたのは、福岡の金持ち大学生・増尾圭吾と、長崎に住む冴えない土木作業員・清水祐一。夜中の峠で、彼らの間に何が起こったのか…。祐一が殺したのでは、と思わせる要素をちらつかせつつストーリーが進む中、祐一は出会い系で知り合った佐賀の30歳のOL・馬込光代と関係を持つ。次第に光代に心を開いた祐一は自分の罪を彼女に告白するも、ようやく愛する人に出会えたと感じている光江は彼の出頭を引き留め、二人で逃避行を始める。そんな二人が最後に行きついたのは…?
というような感じで、「殺人」と「愛」を二本柱に、登場人物たちを取り巻く状況や心の動きなどを描いていくことで、現代社会における様々な “悪” について、見失われつつある心の “生” について、時代が直面する問題を浮き彫りにしています。(と私は思います。)
上映時間は2時間19分と長めですが、流れが良いので、そう長く感じないのではないでしょうか。私の場合は「えっ、もう終わり?」となるくらい、みるみるうちに映画の中に引き込まれました。
映画『悪人』を観た感想
では、ここから早速映画の感想に入っていきたいと思います。
観ていてまず一番に感じたのは、本当にこの話の良さや深さを描き出すには、きっとこの上映時間では足りてないはず! ということでした。
この時点ではまだ原作小説は読んでいなかったため、どういった部分が省かれているのかは実際には分からなかったのですが、それでも明らかに話の展開が速いと感じました。
そのため、登場人物の行動への理解や感情が追い付かない部分も多く…。
しかしながら、それを補う俳優陣の演技が素晴らしかったと思います。
映画では直接描かれなかったであろうディテールを、許されたカット数だけで観る者に感じさせる力、というか。
主演の妻夫木聡さんや深津絵里さんはもちろんですが、当然ながら二人に比べて出番の少なかったはずの樹木希林さんや柄本明さん、宮崎美子さん。
スクリーンを通してそれぞれの立場や憤りを表現する力などには本当にもう身の震える思いです。
特に柄本明さん演じる石橋佳男(殺された佳乃の父)と、樹木希林さん演じる清水房枝(殺した祐一の祖母)のシーンそれぞれからは、誰が被害者で誰が悪人かは、立場や関係性次第でいくらでも変わる。そんなことについて考えさせられました。
人にはそれぞれ個人的な事情があって、人と人の間にも、組み合わせの数だけ様々な関係性や事情がありますよね。
殺人者であっても被害者であっても、その観点では同じ。個人の行為がどの時点から善悪に分かれるかなんて、もしかすると誰にも白黒線引きできることではないのかもしれません。
しかし、そこにいかなる事情があったとしても、絶対的な “善” として在るのが「法」や「世間」なのかな、と。そしてそれは、結果論でしか導き出されない“正義”です。
※以降、ネタバレありです。
どう考えても、佳乃(満島ひかり)は「善人」ではなかったと思うんですよね。運転席の祐一に「振り込んどって」と言い捨てるときの佳乃の“お前なんか大事じゃない”と言わんばかりの顔、横から張り倒したくなります(笑)
佳乃を車から蹴り出して頭を怪我させた増尾(岡田将生)に至っては、何の罰も負わないことは確実に「悪」。自分の行動が原因で佳乃が死んでしまったかもしれないのに、佳乃のことを、仲間と盛り上がるネタにすらしています。
娘の所業を知らずに(認めずに)「お前は何も悪くない」と言い切る佳男も、親子関係を無条件の「善」だと捉えることも、正しいとは言えない。(これは、「お前は悪くない」と言ってもらえなかった祐一の子供時代との対比でもあるのかもしれませんが。)
でも、世間で絶対的に「悪人」とみなされてしまうのは、自分の罪が重くなることも顧みずに、生まれて初めて愛をくれた大切な人を守った祐一(妻夫木聡)のほう。親に捨てられた過去から心に傷を持ち、自己存在感を持てないまま成長してしまった祐一のほうなんですよね。
その生い立ちを鑑みると「祐一はむしろ被害者だ」と言いたくなるところに横たわるのが、押しも押されぬ「殺人」という罪。
それはやはり、どんな事情があったとしても越えてはいけない一線。
この映画では、どんな事情があったにしても「殺人」は犯してはならない罪、ということはもちろん大前提としつつも、その裏側にある人間模様を描き出すことで、「法」や「世間」といった絶対的な判定者に対して疑問を投げかけているのかな、と感じました。
世の中は裁かれることのない「悪」で溢れている、と。
ではそれらの「悪」に対比するもの、肯定すべきものは何か。
私がこの映画から感じた答えは、誰かを大切に思いながら、傷つきながらも生身で生きることこそが「人間の真実」、ということです。善と悪は表裏一体なので、あえて「真実」という言葉を選びました。
そして、その「真実」にはやはり「愛」が必要なんですよね。
ラストカットの笑顔から察するに、祐一は最後に「真実」を手に入れたということだと思います。「生きる意味」と言い換えても過言ではないもの。それは祐一自身がずっと欠けていると感じてきたものです。ならば、この映画はハッピーエンドなのかもしれません。
本当にこのラストの朝日のシーンは、暗い話の最後に祐一の中に芽生えた心の光や生きる希望を見た気がして、自分も救われたような気持ちになりました。
というわけで、“ハッピーエンドのラブストーリー”ともとれる映画なのですが、終わり方がもやもや過ぎましたね。本当に「自分が光代を殺そうとしている」という状況を作るための演技だったのか。
連れ出される直前に光代の手に必死で触れようとする様子からは、光代のための演技だったと私は受け止めましたけれど…。(のちに小説を読んでからは、違った見解になりました。)
それから、光代。彼女は最後に祐一が必死で自分に触れようとしていたなんて知りませんし、タクシーの中での一連のセリフからも、「祐一は自分を愛していたからこそわざと殺そうとする演技をした」ことを悟っていたかどうか、私は判別できませんでした。
捕まってしばらくは彼との愛を信じていたかもしれないけれど、彼女は最後に祐一の殺人者としての顔を見たわけですし、次第に「あぁ、世間の言うように、彼は悪人なんだ」と思うようになってもおかしくないですよね。
そんな悪人を愛してしまった自分を責める想いから、佳乃に後ろめたい気持ちから、峠に花を手向けに行ったのではないだろうか、と…。
相手が殺人者でなくても、他人の心の内なんていくら考えても分かるもんでもないですからね。結局は “世間の言うこと” で判断するしかない部分もあるんじゃないでしょうか。
答えのない、やるせない映画ではありますが、人間や社会についてとことん考えるのが好きな人には、何度も見返してしまうような深さのある映画だと思いました。
映画のストーリーについての感想は以上なのですが、少しまた出演陣の話に戻って、妻夫木聡さんの “オーラゼロ” の演技は必見ですよね! ああいう感じの冴えない田舎の金髪兄ちゃんって普通にいますし、土木関係ならではの日焼け感もしっかり出ていました。「清水祐一」を演じているというよりは、「清水祐一」になっている、という感じ。
方言を自然に使えているからこそ、余計にそう見えたのかな? そういえば、出演者はみんな九州弁を喋っていたけど、みんなの出身地って?
ということで、次はついでにそのあたりもみてみたいと思います!
出演者の出身地、方言について
私は九州人だから余計に思うのでしょうけれど、俳優さんたち全員が九州弁で話していることも映画の大きな見どころでした。
妻夫木さんや深津さんがやけにナチュラルに方言を喋ってるなぁと思って出身地を調べてみると、なんとお二人とも九州出身なんですね!
出演者の出身地
- 妻夫木聡:福岡県山門郡三橋町(現・柳川市)
- 深津絵里:大分県大分市
- 岡田将生:東京都江戸川区
- 満島ひかり:沖縄県沖縄市
- 柄本明:東京都中央区
- 樹木希林:東京都千代田区
- 宮崎美子:熊本県熊本市[佳乃の母]
- 余貴美子:神奈川県横浜市[祐一の母]
- 光石研:福岡県北九州市[祐一の親戚の、解体屋の人]
- 松尾スズキ:福岡県北九州市[悪徳商法の人]
- 山田キヌヲ:宮崎県宮崎市[光代の妹]
- 永山絢斗:東京都板橋区[増尾の同級生]
- でんでん:福岡県筑紫野市生まれ、遠賀郡水巻町育ち[タクシー運転手]
- モロ師岡:千葉県八街市[バス運転士]
オレンジが九州出身者です。宮崎と沖縄は、同じ九州でも方言の質が違うため、勝手に除外させていただきました(笑)
個人的には、長崎のバス運転士さんの方言がとても上手だったと思ったのですが、予想に反して千葉のご出身。あの、憤った北部九州人が方言丸出しで物申す感じ、すごくうまく表現できていました。
岡田将生さんの九州弁だけはちょっと「う~ん」なところもありましたが、九州外のみなさんも概ねナチュラルで、かなり練習されたんじゃないかなぁと思います。特に満島さんは、ナチュラルどころかほぼネイティブレベルだったと思います。
また、同じ北部九州出身でも地域ごとにけっこうな違いがありますので、大分人が佐賀弁、福岡人が長崎弁、というのもそう簡単でもなかったはず。例えば私は福岡育ちですが、父は佐賀人、母は熊本人。どちらの方言も聞き慣れてはいるはずですが、マネするとなると意外と難しいですもん。
ちなみに、『悪人』は2018年に舞台化もされており、キャストは祐一=中村蒼(福岡市出身)、光代=美波(東京都出身)だったそうですが、舞台も方言だったのかどうかは不明です。
小説『悪人』を読んだ感想
最後に、小説のほうを読んでみた感想を綴りたいと思います。
当然のことながら映画とはアプローチが異なりますので、小説の方が物事への描写が深くなるのは当然と言えば当然なのかもしれませんが、それでも、小説では圧倒的に人物にまつわるエピソードの数、土地の詳細説明などが多かったです。
例えば、殺人現場となった「三瀬峠」。
著者の吉田修一さんは長崎出身とのことですので、ご自身も幾度となく通った経験があるのかもしれません。私も最近、福岡から佐賀に抜けるために二度ほどこの峠を通りましたので、次第に山に入っていく感じとか、峠の薄暗さやカーブの多さなどは承知しています。
それを踏まえて読んでみても、すごい細かい描写力だなぁと。
その他にも、佐賀市内や吉塚駅・東公園周辺の雰囲気など、たとえその場所を実際には知らなくても、読むことで知っている場所に変えてしまうくらい、現実感の溢れる文章だったと思います。人物描写、心情描写も然り。
それだけに、“中の上”、“なんか垢抜けん”とも描写されている佳乃に満島ひかりというのは少々ミスキャストなのではないかとも思いました。あれじゃあ可愛すぎで、車から蹴り出そうなんて思えないでしょう。それも演技でカバーできてたとは思いますけど。
でもやっぱり、小説では“豊満な胸”ともありますし……
祐一の祖母役も、小説で読むともう少し普通の、というか、線の細いおばあちゃんでした。樹木希林さんはもちろん素晴らしいですが、ちょっとアクが強すぎたような気もします。
次に感じたのは、意外とこの話って、著者が家でテレビを見ていて着想したのかも、ということです。今(2019年秋)で言うと、新潟の25歳男性が20歳女性を殺害し、指名手配された事件。それをニュースやワイドショーを見ていて、「実際は2人の間にどんなことがあったんだろう」「犯人の生い立ちは?」などを想像して、それが膨らんだのかもしれないな、と。
とにかく私には、ある殺人犯の物語を軸に、マスコミという存在、若者の抱える心の孤独、人と人との出会い方の変化など、現在社会の特性を表現した小説、という風に映りました。
それに加えて、殺人を犯してしまうような人が抱えている “得体のしれなさ” や “心の奥底にある闇” 、その不気味さも十分に表した幕引きになっていたと思います。
それは映画でも表現されてはいますが、小説の方がより客観的に、常に“世間の目”を通して語られているというか、淡々としてるんですよね。そこを映画ではよりドラマティックに、メッセージ性を絞った作りにしたのかもしれません。
映画と小説、同じだけど別物。矛盾しますが、まさにそんな感じです。
※以降、小説版のネタバレあり。
小説の中には、登場人物の各々が警察相手に話した音源を文字起こししたようなパートがちょいちょい挟まってくるのですが、その中でも「なるほど」と思ったのが、祐一を知るヘルス嬢の独白です。
あの人が急に真面目な顔をして、「ここだけの話やけど、俺、おふくろに会うたら金せびる」って言ったんですよ。 (中略)「欲しゅうもない金、せびるのつらかぁ」って言うたんですよね。だけん、「じゃあ、せびらんならいいたい」って、私が笑うたら、あの人、ちょっと考え込んで、「……でもさ、どっちも被害者にはなれんたい」って。
吉田修一 悪人(下)より
自分を捨てた母も母なりに辛い思いを抱えてきたんだと知った祐一は、相手の嫌がることをすることで自分が“加害者”になれば、母も少しは楽になるのかも、と考えたんでしょう。
そしてこの図式は、最後に光代を“被害者”にすることで守ろうとする行動にも繋がっているのだと思います。これは、映画と同じ。
しかし、映画ではあった、取り押さえられる瞬間に光代に手を伸ばすシーンは小説では描かれておらず、代わりにあるのは祐一のこの独白。
女性を追い詰めることに快感を覚えとったんです。追い詰めた女性が、苦しむところを見ることで、性的に興奮しとったんです。自分では気がついとらんだけで、自分の中にそういう気持ちがあったんだと思います。(中略)自分はそういう男なんです。(中略)もしかしたら刑事さんたちが言うように、あんとき(佳乃殺害時)初めて、苦しんどる女の人に性的な興奮ば感じる自分に気づいたのかもしれません。
吉田修一 悪人(下)より
この後には、光代を脅迫して金ヅルとして利用したとか、初めからぜんぜん好きじゃなかったとかも言ってますが、どこまでが本当でどこまでが嘘なのか分からない不気味なところがあるんですよね。
ずっと持てなかった自己存在感、誰からも信じてもらえない自分を光代が救ってくれた。祐一が光代の中に見ていたものって、案外それだけだったのかもしれないな、と。
父に捨てられたこと、母にも嘘を付かれて捨てられたことで、人間として安定するための基礎の部分がすっぽ抜けたような人だったのなら、まず必要だったのは男女の愛よりも自分を埋めることだったはずだと思うからです。
辛い思い出しかないはずの灯台に執着していることからも、心の底に母への憎しみがないはずがなく、それが知らず知らずのうちに女性全体に向けられるものになっても不思議ではなく。
そう考えると、最後に光代の首を絞めたとき、“殺人者”としての自分を確信したのかもしれない、というのが私の推測です。
ただ、最後の最後の光代の独白の中には、祐一の証言のおかげで実家の窓に石を投げられることもなくなったし、一緒に逃げていた女ではなく被害者になった、ともあります。ここは筆者のうまい心理戦なのですが、読者に「じゃあ実際のところ祐一はどういう思いで…」という結論を二転三転させているんですよね。
私個人の結論としては、光代を被害者にしたのは確かに祐一の思いやりだけど、祐一が女性の苦しむ姿に興奮するのも事実。やはり祐一は、完全に「殺人者」だったんだと思います。
そりゃぁ、殺人者を擁護したり美化するような話にしては、モラル崩壊ですからね。それでも「悪人」かどうかという点に関しては、依然として答えの出ないままで、それこそが、著者がこの作品のタイトルを『悪人』にした理由なのかもしれません。
まだ小説を読んでいない方は、ぜひ読んでみてほしいと思います。セリフなんかはけっこうそのまま映画にも使われていたりして、映像が重なって浮かぶようなシーンもあり、一気に読み進められると思いますよ。
おわりに
私の、『悪人』への感想は以上になります。長々と書いてしまいましたが、最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。
「そうそう、自分もそう思う」「いやいや、それは違うよ」「なるほど、そうかもね」など、他人の感想を読むと自分の意見も膨らみますよね。こうやってあれこれ考えて自分の中で“消化”するのも、視聴後・読了後の楽しみの一つ。
『悪人』は、数日間もあれこれ考えてしまうほど、映画も小説も素晴らしい作品だったと思います。
観るごとに、読むごとに感じることが増えるので、この記事の内容はまだまだ作品のことを分かっていないことだらけのはず…。自分だったらどうしたか、なんて “自分レベル” に取り込むことも当分は無理そうです。
また10年後に観たら、もっといろいろ分かるのかなぁ…?
やっぱりたまにはこうして映画や小説と真剣に向き合って、思考を深めていくことを大事にしていきたいなぁと思ったところで、締めくくりとさせていただきます。
それでは! Polly