続・初投稿:なぜ自然は癒しなのか、について考える

みなさん、こんにちは。

今回で第2回目の投稿となります、自然派雑記ブログサイト「しぜんfan」のPollyです。

前回は初投稿のごあいさつを兼ねて、私のプロフィールやサイト開設の目的などについてお話しさせていただきました。

今回は、同サイトのメインテーマのひとつである「自然」のほうにフォーカスし、「なぜ自然は癒しなのか」について、私なりの考えを書き綴ってみたいと思います。

同じような疑問を持ったことがある方に、一意見として参考にでもなれば幸いです。

それでは、どうぞよろしくお願いいたします!



そもそも自然とは

いきなりですが、そもそも「自然」って何でしょうか。

言葉の使い方を考えてみると、まずは、「自然体で飾らない」、「自然と生えてきた」など状態を表す意味合いがありますよね。“あるがまま”というような意味合い。

では、上のように状態を表す場合ではなく、 「自然豊か」や「私、自然が好きなんです」という場合に使われているような、名詞としての「自然」はどうでしょうか。

やっぱり、“あるがまま” という意味合いで、海や山や森など、人間によって作り替えられていない場所のことを指すのでしょうか。

しかしそうすると、人間が作ったものが入れば自然とは呼べなくなるのでしょうか。

真剣に考えてみると、けっこう曖昧な言葉ですよね、「自然」って。

学者さんたちに聞けばちゃんとした定義があるのだとは思いますが、せっかくならば自分でも考えてみたい。ということで、僭越ながら個人的な見解をここに綴らせていただきたいと思います。

私は、自然とは基本的には「地球上で自然発生したものすべて」のことなんだと思います。人間も含め。

しかし、この「人間も含め」というところが事態を難しくします。

人間の存在自体は自然の一部でも、その人間はどんどん建物を建てますし、人工ビーチやダムなどの疑似的自然までもどんどん作りますし、自然環境や生態系も破壊しまくりです。

では、人間の存在自体は自然でも、人間の行為は自然には含めないのか。

そうしてしまうと、それはそれで問題も出てきます。例えば、「田舎」。

田舎というと、手つかずの自然というよりは、どちらかというと「田園」や「農村」を指しますよね 。となると、田舎も人間の造ったものです。

通潤橋(熊本県上益城郡山都町)

田園風景は一種の自然であると受け止めても、丘を切り開いてビルだらけ・コンクリートだらけになった場所を自然だと言う人は多くはないでしょう。屁理屈を言うと、どちらも人間の行為によって造られたものなのに、その差はどう説明できるでしょうか。

こう考えてみると、人間の存在って本当に厄介なもんですね…。

私は、人間の造った “疑似自然” も一応、「自然」に含まれると思っています。

畑も公園も、確かに人間が植えた植物や人間が持ってきた土や石しかありませんが、その植物も石も、元は自然のものですもんね。人為的に配置されたんだとしても、そこに虫が集まって、生態系が生まれて、全ての生物がバランスよく暮らしていくことができるのなら、立派な「自然」だと思うからです。

また、人間の造ったものが少しくらい混じっていても、全ての生物が無理なく存在しているのなら、全部ひっくるめて「自然」と呼んでいいのではないかと思います。例えば、森の中の東屋とか、山の中の小さなお社とか。

でも、ビルやコンクリートだらけの場所はやはり、「自然」ではないかなぁ…。季節も天気も関係なくいつも同じですし、第一癒されません。

そう、癒されるかどうかというのも、「自然」かどうかの指標になるかもしれませんね。

人為的な無機質環境のほうが癒されるという人がいれば、その人は進化中の新人類かもしれませんが、大半の人にとってはやはり自然=癒し、なのではないでしょうか。

ということで私は、自然とは、

大半を地球上で自然発生した生物・物質で占められた場所

かつ

人々が癒しやパワーを感じる場所

のことだと思います!

※ちゃんとした意味はこちら:「goo国語辞書」「Weblio辞書」「Wikipedia

自然が人に与える効果・メリット

では次に、前章の新人類タイプの方にも効くのかは分かりませんが、自然の持つ力について考えてみたいと思います。

自然は私たちにどんな影響を与えるのでしょうか。

先ほどまでの話でいくと、答えは「癒し効果」となるわけですが、では、自然から得られる癒しって具体的にどんなものでしょうか。

私は、雨の匂いとか、日の光が透ける葉っぱとか、風が頬をなでたとか(恥)、そんなことでも感動します。特に、自然いっぱいの山の中に行ったりすると、一気に自然を感じる力が増幅して、涙目にすらなります。

鳥が鳴いていたりすると、もうジブリのヒロインです。

札幌、円山原始林にて

そうして感覚を解放することは、まずはリフレッシュやストレス解消になりますよね。

また、「大きな中の小さな自分」という感覚を味わうことも、煮詰まったをリセットして精神バランスを正常化する手助けをしてくれる気がします。

日常の煩わしいことを客観的に静観できたり、嫌なことも小さなことに感じたり、自分の存在を肯定できたり。

とにかく、自分の内側からニュートラルなエネルギーが湧いてくるのを感じると思うんです。

また、自然の中に行くと、自分からは動かない植物、声も出さずに歩いている虫など、静かに生きている存在にもよく目を向けます。そこからは、いつもそこにあり、着実に生きているものへの認知や敬愛を学び、想像力を育むこともできます。

転じて、弱い存在を大事にする気持ちにも繋がるのではないでしょうか。

いろいろまとめると、多少の個人差があるにしても、人は自然と触れ合うことで本来の状態を取り戻し、穏やかに元気をチャージすることができる

これが自然の持つ癒し効果なのだと私は思います。

滝野すずらん丘陵公園・小さな白い花たち



なぜ、自然に癒されるのか

では、人がそうやって自然からエネルギーをもらえるのはなぜなのか。自然に癒しのパワーがあるのはなぜなのでしょうか。

これはもう、「人間がもともと属するところに戻るから」、に尽きると思います。もう遺伝子レベルで、緑をはじめとする自然色に囲まれると落ち着くようになっているんだと思うのです。

大昔から緑はいつでも人間の側にあり、人間を生かしてくれる存在でしたから。

高千穂の神社・木々のイメージ写真

色だけでなく、匂いにも何か効果があるに違いありません。

また、自然には当然、安全な植物以外の存在も含まれます。毒のあるものや危険な動物など。

そういったもの全てに囲まれながら、安心と緊張を繰り返しつつ五感を使って生きることが、本来の人間の姿なのではないでしょうか。

「危険」や「緊張」は「癒し」とは対照的に聞こえますが、「安心・安全」が行き過ぎて「弛緩」になってしまえば、それはそれで「癒し」からは遠ざかってしまうのかな、と思ったり。

ともかく、現代では人間は、自然災害を除いては環境をある程度好きにコントロールする力を得、その生き方は少しずつ変わってきていますよね。

そのために本来備わっていた動物的感覚が鈍くなってきて、なおさら自然を欲するというようなこともあるのかもしれませんし、もしくは、新人類への進化の過程として、少しずつ自然離れをしながら別の感覚や能力を育てていっているところなのかも?

何万年単位の話かもしれませんが、そういうことを想像するのも面白いです。

でも今のところはまだ、心身のバランスを保ったり取り戻したりするためには、自然の力はとても重要なのだと思います。

ところで、私は日本全国たくさんの自然観光名所を訪れましたが、ひとつ大きな共通点があることに気付きました。

それは、「神社」。

緒方二宮八幡社の階段上から鳥居を見下したイメージ写真

景色が素晴らしかったり、何か特別な自然環境が名所となっているような場所には、必ずと言っていいほど神社があります。(言い過ぎだったらスミマセン。)

科学が進んでいなかったころの世界では、不可思議なこと・超常的なことを受け入れる理由の一つとして信仰があったのだとすると、日本の場合は自然そのものが信仰

古くから神社があるということは、昔から土地の人々がその場所に特別な何かを感じていたということなのだろうと思います。

祀るに値する何かがそこにある(あった)ということは、そこはハズレなしのパワースポット”なのかもしれません。

結論!

寄り道もしつつ悶々と考えてきましたが、「なぜ自然は癒しなのか」についての私の結論は一言、

人間も自然の一部だから

です。

健やかに生きるためにも、いつも自然を感じる心の余裕を持っていたいものです。

みなさんも、なんか疲れたなぁ…というときは、気分転換にちょっと遠出して、滝や山などの自然スポットに行ってみると、家に帰るころには元気が湧いていると思いますよ!

微力ながらこのサイトでも、忙しい毎日でなかなか遠くには行けない人やちょっと息抜きしたい人のためにも、自然色たっぷりの画面を提供していきたいと思います。

これにて、当記事はおしまいです。最後までお付き合いいただき、どうもありがとうございました。

ではまた! Polly